「人の群れ」1999.9 by西鶴

今日はヒトの群れである社会について考えました。
ヒトは、一人で生きていくより家族をはじめとする社会を作って生きていきます。何故社会を作るのかというとある本によれば協同で生きていくほうが能率的だからと書いてありました。たしかにお父さんが狩りにでかけ、お母さんが子育てをする太古の生活を思い浮かべると納得できる仮説です。

しかし、この仮説は自分の心に問いただせば間違いであることがわかります。

ヒトは、一人ではいられないから群れを作ったのです。そして、その結果として能率的なシステムが出来上がったのでしょう。

ヒトは、その群れの一員である事に執着します。群れからはみ出すことに恐れを抱きます。この恐怖を利用したのが独裁的政治であり、かって日本が犯した過ちでもあります。

町に多くの情報があふれ、多くの価値観が交錯する今の日本では、同じ国の中に多くの群れを抱えています。その群れの多さが、個性という異端を吸収するクッションでもあり、自由の拠り所でもあります。

多くの群れが、それぞれの意見や生き方を擦り合せ、一つの国としての常識というものが自然と発生し、社会は自浄されていくのです。

ところが、この自浄がなされなくなってきました。それは、群れとれの意見や生き方の擦り合せが行なわれないのと、善、悪の二元論の常識がテレビや新聞で報じられるようになったからです。

その結果、常識は自浄という特性を捨てさり、空虚なものになってしまったのです。

「子供が環境を語るフォーラム」に取材で出かけた時、どの子供も川にメダカが泳いでいてほしいと言いました。「やっぱりイイ事言うよなー」と能天気に思っていた私はあやうく騙されるところでした。


なぜなら、このフォーラムに参加している子供は、メダカなぞ知るはずもなく、まして川で遊んだことなどなかったのです。子供は、「川でメダカが泳いでいたほうがいい 」と単に教え込まれていただけなのです。皆と同じ意見を言っておけばその群れの一員として認めてもらえると知っているのです。

地球温暖化会議を空調の効いた部屋で語る矛盾、いっこうに減らないアキ缶、川をキレイにといいながら合成洗剤が使われる、この手の矛盾はこの子供達の言動と同じ性質のものです。

つまり、経験にうらづけされた学習から生じた常識ではなく、記憶された常識なのです。だから、この手の常識にはリアリティがありません。ヒトとヒトの付き合いの上でのうわべだけの共通感覚です。

日本の中の多くの群れが、この学習を受けてきました。その結果、群れに見せる顔と本質の自分に差が開いてしまったのです。もちろんヒトの社会で生きていく上では、その差すら自分では気がつきません。

犬は、このヒトの常識の外で群れを作ります。どんなに社会的に異端な存在でも犬は群れの一員として飼い主にその存在場所を与えてくれます。だからこそ、ヒトは犬にひかれるのでしょう。それは、ヌイグルミをカワイイと思う脳のプログラムと同じ、生き物としての本質なのです。

「ソフィーの世界」や「シッタカブッタ」、「エヴァンゲリオン」まで自分探しのブームの背景には、群れに見せる顔と本質の自分との差を同化させたいヒトとしての思いが見え隠れします。そしてその延長に「犬を飼う」というブームが起きてもそれは偶然ではなく必然であると考えます。

しかし、他人と付き合うことが、学習の常識であることだと思いこんでいるヒトには結局、本質的に犬と向き合うことは出来ず、犬はたんなるヌイグルミでしかなくなってしまうのでしょう。

自分探しをしている人は、悲惨なまでのバイタリティーで多くの群れをかけもちしていきます。次から次へと車を買いかえるように犬を飼い替えます。しかし、隣の芝生に自分は落ちていません。本質の自分なんてはなから無いのです。すべて学習で記憶なんですから。その事に気づかないヒトには、「犬の幸せ」をいくら言い聞かせても無駄でしょう。そういう人は、情報交換というコミュニケーションの取り方すら分らないからです。

犬という動物とヒトとの共生、まだまだ夢物語なのかもしれません。




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