以下の文章(テーマ)は似通った内容ですが、視点を変えて書いてみました(笑)

トレーニングに用いる道具

訓練では作業の導入にボール・餌を用いることがある。
使い方も様々で、犬の視線を取るために、道具そのものを視線を惹き付ける方法がある。

はて、私はその様に使っているかというと・・・そうではない。ボールや餌はフィニッシュでしか使用しない。てか、作業を仕切るときに用いるかなぁ?この違いを犬は理解しているのかどうかは定かではないが、はて?どうなんだろう?ポケットに入れて、作業を仕切るときに用いるが、犬からすると、ボールが最後にでてくると言う期待感で動いているだけかもしれない。それだったら、ボールを目線に使っていることと何らかわりがないのかなぁ?

注)追求作業は除く・・・何故って、餌を使っています(言い訳)

前進の伝え方としてボールをターゲットに教えるが、これはどうなんだろう?最終的にはボールが無くても、何処までも前進してコマンドかかるまで勢いよく前進するように作業理解を付けていくのだが・・・

おおそうじゃ、過程では道具を用いるが、その先の真なる理解においては使わない。これを徹底して乗り越えなければなぁ。私自身が道具に頼ってはならない(反省)。知らずして誘導したり、かばったりしてしまう事を無くさなければ・・・もっともっと客観的に判断できる状態をつくらねばぁ(反省)

訓練の誤認・・・つまり、過程で用いた様々な道具を最終的には無くても可能って状態こそ「真なる理解」、従って、ボールジャンキー、餌ジャンキーを乗り越えてこそ、訓練の完成度が増してくるって事なのかもしれない。これは飼い主とノリノリ状態でないと愛犬が上手く動けないって言う事も当てはまることなのかもしれない。本当に指導手と愛犬の求めるモノが一致しているかは、ボール・餌・誘導を全て無くした状態で動けることなんだぁ!教えたはずなのに、どうして犬が動かないの?とか、今日は調子が悪いなぁ?とかは、まだまだ、指導手と愛犬との誤差が縮まっていない事なのかもしれない。

初期段階ではボールがでてくる期待感を用いてトレーニングを行うが、その後はもっと、別の方向へ進化をさせなければ成らないのだ。その部分をしっかり乗り越えなければ「真なる理解」を築けない。この部分を諦めてそのまま進むか、どうかは指導手の心持ち次第だと思う。

訓練とは謎解きの道なのではないかなぁ?
愛犬をすかさず観察して、謎を解いていく作業=訓練だと思う。

モチベーションって?
(動機づけ。欲求発生のための条件。)

訓練を先生から習うとき「ボールが好きですか?」と話題がでる場合が有ります。ボール好きな犬=訓練に向いていると言う一般的な公式みたいなのかなぁ?って疑問を感じたことがあります。

一番のモチベーションは相棒である指導手ってのが私の理想。愛犬から目を離せない楽しい相棒・この人の言うことを聞いていれば間違いないぞぉっと思える群のボス感(尊敬)を愛犬が持てるような指導手に成りたい。ボスって言っても、犬が進んで受け入れたいと尊敬して貰えるような指導手になりたい。私はその為に「犬を訓練するって立場」ではなく「自分が犬を知るための訓練に愛犬に付き合って貰っている」って感じ(笑)。

愛犬を道具に惹き付けて、作業の形を教え込んでいくために必要な道具(餌)なのだろう。が、しかし、ボール(餌)に興味を示さない犬が居るとしたら、訓練に向いていない犬っと断言されてしまうのかなぁ?それだと、チョット虚しい。犬は本来、人間の相棒として長い歴史を育んできた共同体なのだから・・・ボール(餌)好きの犬じゃなくても、訓練はきっと可能だと思う。モチベーションは相棒(指導手)さぁ、愛犬にとって一番目の離せない、いつも一緒の共同体(群れ)という仲間意識が一番のモチベーションだと思う。

モチベーションに道具を用いる際、その道具無しでも可能になって初めて真なる理解を確認できる。訓練(あらゆるドッグスポーツを含めて)を愛犬との楽しみとして始める飼い主が多いと思うのだが、その過程において、色々な悩みがでてくる。そして、なんで失敗したかを考えるとき、何故、愛犬は思い通りに動かないのだろうと悩みがでてくる。教えたはずなのに、練習では上手く行くのに、他の犬さえいなければ上手く行くのに、今日は犬の調子が悪いのだぁ・・・とか、考えてしまいます。

私の場合。。私が犬に正しい理解を伝えられていない。私が正解を熟知していない。トレーニングにおいて私の褒めと修正に誤りがあるからだと・・・・競技は正解と言われる形や動きにどれだけ競技としてマッチしているかが採点基準となるのでしょう?競技だから当然です(笑)。その正解を指導手が熟知できなければ、自ずと結果に現れる。犬が勝手に正解を作るもの(勘で動く)ではなく、犬が正解にたどり着けるように、指導手がトレーニングの中で犬を導き出す作業が訓練なのだと考えます。競技会を愛犬との暮らしでメインテーマとすると、ついつい、形のみに拘ったトレーニングに陥りやすい、罠が知らずと己の身に降りかかってきます。そして、愛犬に対して、トレーニングの限界だと思うようになる。何故か不思議だけれど、応えに辿り着く前に諦めてしまう・・・・本当に不思議!(かつての私も例外ではありませんでした「反省」)

お互いの心が接近したとき、つまり、お互いの理解が一致したときに報われる結果として現れるのではないかと思います。私はコマンドしたときに、様々なファクターを考え、それに対してどの様に犬が受け止めて動いているかを観察、資料収集って感じで収集ポケットを整理して、一致点を探し出すってのが良いかなぁ?と思っています。まだまだ全然、完成には及びませんが(恥)。
犬が思い通りに動かなかった場合は、命令した私自身が犬に解るように伝えていないって事なんだと、考えます。指導手の求める完成形にムラが有る場合?愛犬はどれもこれも違うファクターなのに「なんでぇ?これも正解なの?この前は、それじゃダメだったんじゃないの?」って感じになってくるかもって・・・・愛犬は次第に指導手に応えるのが嫌になってしまうかもしれない。

そうならないためには、指導手として一貫性を持って訓練に取り組めているのだろうかを常に問い直しながら進めようと思います。一方的な押し付け、更に一貫性がないトレーニングに陥っていないかどうかを振り返って考えます。強制的に接していなくても、難解な作業を続けることは教えられる犬からすれば同等の虐待行為だとさえ思えてしまう。スパイクやチョークで身体的なプレッシャーを与えることだけが虐待と思っていたら大間違いだと思えるのです。肉体的なプレッシャーも身体的なプレッシャーも形が違うけれど犬に対してはどちらもかなりの報われないストレスなんだと思う。この様なことに陥らないように犬を正面から捉えて指導手自身が学ばねばと思います。

さて、誤った訓練?でさえも、次第に愛犬は経験で飼い主の癖を読みとり、難解な命令でもとりあえずの答えを用意可能に成る事もあり得ます。犬は犬なりに一生懸命考えて、指導手の要望に応える努力をしているんだなぁって・・・ここが犬の凄さでもあります(笑)。この良性チャンスを見逃さなければ確実なモノが出来上がるとも思えます。

一方、失敗が結果に現れたときは皆さん落ち込むのでしょうか?私は失敗こそ、チャンスなんだ。自分のトレーニングのあり方を問いただせるチャンスなんだ。と、再挑戦する意気込みになります。執念深い性分なのかなぁ>私。もっともっと愛犬の事を知りたい、お互いを解り合いたいからトレーニングを続けたい(汗)。愛犬は自分自身の鏡でしょうか?より解りやすく、愛犬とコミュニケーションするために、犬を知るために人間の修業こそ訓練だと思います。こんな私に付き合ってくれる愛犬に心から感謝です。難解なコマンドを一生懸命理解しようと付き合ってくれる相棒です。飼い主の勝手に選んだドックスポーツに付き合ってくれる愛犬に心から感謝せずにいられない。

長々と横道に反れてしまいました「モチベーション」がテーマでした(爆)。
愛犬を惹き付けられる道具を何とか見つけたいって、動議付けをどうするかって、トレーニングに苦悩すると「まず、モチベーションを探そう」って、考えるようになる。そして、ドンドン悩みが脹らんでしまいます。

ディスクやアジリティの場合は道具やセットそのものがモチベーションになるから、悩みってそれ程深まらないのかもしれません(暴言ですが)。ディスク自体が「獲物」であって、犬の狩猟本能だと思われます。アジの道具は、野山を駆け抜ける犬の達成感が味わえる競技だからと考えます。そして、視符も体符も声符も使い放題です。
対照物(競技の道具)が犬にも人間にも解りやすい作業だと思えます。偉そうなことを発言して申し訳ございません、究極なテクニックはアジリティでもディスク競技でも至難の業です。その事を充分認めています。どうかお気を悪くなさらないで下さい。

服従とは全然違う競技(ゲーム)なのでしょうかぁ?・・・

はて?どうなんでしょうね。究極の精度を築くなら、
やはり服従で愛犬と誤差のないコミュニケーションが絶対に必要だと思うのですが・・・その様に考えるのは、私だけでしょうか?
強く服従を入れると、スピードが落ちると世間では言われています。
その様な感覚は、服従の意味を取り違えているのではないかなぁ?って(笑)

服従って一方的に従わせる作業では有りません。
虐待することでも無いのです。
漢字で書くとその様に捉えられちゃうのかなぁ?(笑)
肉体的ストレス・身体的ストレスを無くしていく作業、
そして、一体感を喜び合う作業が服従トレーニングだと思います。
精度を上げる過程ではプレッシャーもかけていきますが、後に喜びとして乗り越えていくための良性プレッシャーだと思っています。

(良性プレッシャー:使い手がしっかり理解して行う事)

モチベーションとは、はて?モノなのか心なのか?
見付けるモノなのか、生まれ出るモノなのだろうか?
段々訳が解らなくなってきてしまいました(自爆)
私は目に見えない何かだと思えるのですが・・・
或いは要らないものかも?
絶対必要なモノなのかなぁ?
玩具じゃないことは確かかなぁ?
言葉って難しいです。実際は深く考えたことが無い私(自爆)

今までの私は服従を疎かに考え、安易に?入り込める様々なドッグスポーツにチャレンジしてきました。そして思う存分楽しんできました。モチベーションって考えずして楽しんでいる私です。現在も進行中ですが・・

色んな流派の教え方が存在します。そして外来語(カタカナ)の表現も増えてきました。服従、オビディエンス同じモノをさしているけど、捉え方も違います。考えれば考えるほど難解です。言葉の意味は深く考えないで、言葉にならなくても愛犬と緻密に分かり合えれば良いかなぁ?な〜んてね(笑)
訓練に嵌っちゃいましたが、シンプルな感性を持ってチャレンジして行きたいと思います。

競技にしても、家庭犬にしても飼い主の求める姿勢が愛犬に現れてきます。精度も指導手として何を理想とするかで様々です。犬に対して変化をダイレクトに望むのではなく、指導手としての心構えが犬に表現されるのだと思う。犬を変えようと思わずに、指導手が変化を遂げたとき成功?への道があるのでは?

はて?成功って・・・・永遠にたどり着けないから、楽しみが続くような気がする(笑)

モチベーションの答えになっていないじゃん(自爆)

かれこれ、10日間ぐらい悩んだかなぁ?
Windy&RAYを考える時、モチベーションという言葉さえ思いつかないでトレーニングをやって来たような気がする。WindyもRAYもステージ上で「さぁ、やろうね」と言う前に雰囲気を察しているような気がする。事前に意欲を高めようと思った事すらないのだ、そう考える前に犬が意気揚々に興奮してしまう。
どちらかというと、興奮しないで落ち着いて欲しいと犬に対して願うばかり。それを他人から「どうしたらそんなに意欲を作れるの?」って思われるけど、自然に興奮スイッチが入るから、どの様に自分が作ったのかさぇ応えられないのだ。
意欲とは違う興奮スイッチが自然に入ってしまうように作ってしまった・・・

これは私の反省点である。私の心を察して犬がその様に行動してしまうだけの結果でしかないのだぁ(爆)意欲と興奮は別物なだけど、人様から見ると同様に判断されるかなぁ?一応やることはやるので、ステージ上では区別するのが難しいかも?

(注)アジ犬Windyを分析すると、道具に対しての理解・私と併走する理解が有る。スタートが一番大事だから本来なら私がその事をしっかり認識させなければならないのだが、私自身が諦めているってか、その時の障害に望むWindyの気持ちを大事にしたいと思うようになったのだ(爆)。強制での一方通行な理解でスタートさせたくない。スタート地点で私の望むモノ、Windyの望むモノが納得したお互いの理解を作れたらなぁ?っと、いつも挌闘しているのだぁ。ごく希だけど落ち着いたスタートが可能なことがある。至上の喜びだ。スタート地点での待てに関しては、私がWindyの障害に対しての強い思いに勝てないからっと、常々反省。が、しかし、Windyのいつまでもやりたいって心意気も尊重したいから、納得済みでWindyを許してしまうのだぁ(大笑)

WindyもRAYも、何もコマンドのない状態は、犬の自由時間?
言葉を与えた瞬間にがらりと変化する犬達、なんでそうなっかと言うことをもっと深く考えようと思う。

モチベーションて、目に見えないののなんだと思う。指導手の心構え&情熱が犬を動かすときのポイントなんだと思えてきた。

あ〜あ、答えになっていないかなぁ?


シーザー・ミランの言葉『犬とは命令で動く生きもの』


最近(2006.02.13)考えたこと・・・私は道具を上手く扱えない。従って道具を使うの一切止めようと、思わずにいられなくなってきた(自爆)。

上手い指導手は、モチベーションの扱いがとても優れている。受け手の犬からすると、『国宝級・世界遺産級のめったに見られない・めったに触れないお宝物って感じかなぁ?(推察)』その様にモチベーションとして道具を扱える技術が私には無いのだ。この先もきっと不可能だろうと推察。だったら、道具を使わない方がましだ(自爆)